2016年3月7日に寺子屋の第二回が浄栄寺で行われました。
悪天候により、講師の先生の到着を待つ時間ができてしまったため、急遽テーマを決めて茶話会が開かれました。
今回の講演は 佐野明弘さん
大雨の中到着した佐野さんの講演は熱気に満ちたものになりました。
「まず私たちは第一に死すべきものとして生まれているわけです人間慣れてくると軽くものをみるようになる何日生きてきましたか?わからないんですよ。せいぜいが何年で。そうすると毎日目が覚めても驚かない。今日も生きていたなんて」
私たちに問いかけながら進める話に、会場からも反応の声が漏れます。
佐野さんは続けます。
「太陽が昇ってきたなんていう、理科で習った通り地球が回っているのに、私たちは太陽のほうが昇ってきたと言って生活している。なぜかというと、人間の眼は自分中心にできているので、自分中心にみると太陽が回っているように見えるし、今日生きていたんだから、明日の生きていて当たり前と思うようになる。」
なるほど、確かに。と思わされるほど話に引き込まれます。
「そして、当たり前に生きているとなんのために生きてきたのか、何をしてきたのか、最後にわからなくなる。死を思うことで、満たされないまま終わるような虚しい生ではなく、初めて生と向かい合える。」
「自分で自分を受け止めて生きていくということが本当に難しい。これが最大の問題です。」
「人間は自分を善しと思って受け止めたい。あなたたちも自分を少しでもいい人間だと思っているんじゃないですか?災害のニュースをみて、かわいそうだなぁと思うことで優しいような気がしている」
会場で話を聞いているほとんどの人が、自分も当てはまると思い聞き入っていたのではないでしょうか。
「人間のまなざしは曲がっているし、ちょっとでもいいものだと思いたがっている。それが人間の本質だと親鸞聖人はいっている。自分が善人でないというのは受け入れがたい。それが人間。そして私たちの世界は戦争の世界に入ってしまっているのかもしれない。それが現実。」
「私たちに罪は受け止められない。それを受け止めてくれるのが阿弥陀仏。仏教を一言でいうなら「悲」の一文字です。人間は喜びによって救われているのではなく、悲しみは悲しみを通して初めて救われる。だから如来は大悲をもって救うのです」
「人間が人間であるということを引き受けることは難しい、皆さんは私は、といって生きてきたでしょう?本当に人間であるということを引き受けたことなんてふつうはないと思います。それは世界中すべてのことを自分のこととして考え引き受け生きなければならないからです」
心に残る言葉が多い、佐野さんの講演でした。
私自身、心に残ったものの分かったとは言えない。そういう言葉がたくさんありましたので、これを読んでくださる方の心に先生のお話が届けばいいなと思い、多くの言葉を引用させていただきました。
最後に先生はこう結びました。
「こうして話を聞くということは、話によって自分というものを捉えなおすということです。そういうことが願われているのでございます。」