本堂全景

西来寺 本堂全景



本堂の中

西来寺 本堂の中 本堂 内陣



寺宝・什物

文章: 上杉 孝良氏(「西来寺誌」より 2012年)

阿弥陀如来立像

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寄木造 玉眼嵌入 漆箔
像高七二・九糎
室町時代

 西来寺の本尊。本堂内陣須弥壇上の宮殿内に安置され、四八条の放射光を配する頭光を負い、蓮華座(高七二・五糎)上に立つ。右手を屈臂して胸前にあげ、左手を垂下して、それぞれ第一指と第二指を捻ずる。いわゆる上品下生印で、一般にこれを来迎印という。しかし、浄土真宗では宗祖親鸞聖人の教説により、これを摂取不捨印という。「摂取不捨」とは、この場合、念仏する衆生を残らず救済しようとする阿弥陀仏の慈悲をあらわす。
 総体に均整のとれた姿形で、螺髪は小さく、伏目に小ぶりの口唇の端正な尊顔、克明に彫出された写実的な衣文など、安阿弥様の像容を示した佳作である。両手首、光背、台座は後補。室町時代後期の作と推定される。
 なお、台座は昭和二十六年に磯部かつ子氏によって寄進されたもので、「為浄誓院釈庄詮信士/寄進 磯部かつ子」の墨書銘がある。
 この本尊は昭和二十四年三月二十九日の西来寺の火災の際、猛火の中、住職昭圓師の決死の搬出によって、辛うじて難を逃れた尊像である。
親鸞聖人絵像

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絹本著色 縦七八・〇糎 横五六・五糎
明治時代

 親鸞聖人(一一七三〜一二六二)は浄土真宗の開祖。綽空、善信ともいう。法然上人に師事、浄土の教えに安心の道を求め、他力易行、自力難行を説き布教した。『教行信証』は、その主著である。
 衲衣の上に袈裟を着け、首部に帽子を巻いて、両手で数珠を爪繰り、頭部を右斜向きにし、礼盤上に趺坐する形姿で、晩年の温和な顔貌を描いている。
 画面に向って左側面に「見真大師」、上部に「観仏本願力 過無空過者 能令連滿 足 功徳大宝海」の願正偈四行賛の墨書がある。
三朝七高僧絵像

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絹本著色 縦一〇三・〇糎 横四八・〇糎
第二十世釋昭圓筆

 三朝七高僧像は天竺・中国・日本の浄土教の師祖たち七名を一幅に描く形式のもので、本図もその図様に基づく。曇鸞大師(倚像)を中央に、向って右上から竜樹菩薩・善導大師・源空大師(法然)、左上から天親菩薩・道綽禅師・源信和尚を金泥・青・緑青・朱・黒・白など極彩色に描いている。
 昭和二十四年の本堂炎上で、寺宝什物が悉く灰燼に帰したため、住職昭圓師が自から礼拝対象として、また教導のため描いたものである。以下同様である。
聖徳太子絵像

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絹本著色 縦一〇三・〇糎 横四八・〇糎
第二十世釋昭圓筆

 聖徳太子が父用明天皇の病気平癒を祈る姿を描いた、いわゆる十六歳孝養像で、髪を角髪に結い、袍の上に袈裟を着け、柄香炉を奉持して礼盤上に立つ姿である。宗祖親鸞聖人は太子より入信の際の示教を受けるなど、生涯にわたり太子を尊信した。真宗寺院では、「三朝七高僧像」とともに懸用され、本尊に準じて崇敬される。
親鸞聖人絵伝

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絹本著色 各縦一四三・〇糎 横七八・二糎
第二十世釋昭圓筆

 浄土真宗開祖である親鸞聖人の生涯にわたる行状を絵図化したもので、本願寺第三世覚如が初めて永仁三年(一二九五)に二巻本とし、絵を法眼浄賀に描かせたのが最初とされる。
 本絵伝は掛軸仕立の二幅で、すやり霞で仕切って十六画面を構成し、第一幅には七画面、第二幅には九画面とする。物語は最下段より順次上段へと発展しており、聖人が出家得度する場面から、大谷墳墓を改め仏閣を建立、影像安置までの過程を描いている。
 この「親鸞聖人絵伝」は、報恩講の際に本堂余間に懸けられ、宗祖聖人の偉業とその遺徳を偲ぶことができる。
蓮如上人絵像
(慧燈大師絵像)

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絹本著色 縦一〇一・八糎 横五一・〇糎
第二十世釋昭圓筆

 慧燈大師とは本願寺第八世蓮如(一四一五〜九九)の追諡号である。第七世存如の長子で、その生涯に本願寺の社会的な基礎を形成し、また多くの御文章を作成して宗義を民衆化し、独自の教化活動を展開したことで著名である。蓮如上人を浄土真宗の中興と称する。
 衲衣の上に袈裟を着け、高麗縁の上畳に斜左向に坐し、右手に中啓、左手に数珠を執る姿にあらわされる。
 画面に向かって右側面に「慧燈大師」、上部に「以大荘厳 具足衆行 令諸衆生 功徳成就」の『大無量寿経』からの引文を付した四行偈を墨書する。
仏涅槃図

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絹本著色 縦一三七・五糎 横八七・五糎
平成十七年(二〇〇五)
京絵師川面稜一筆

 「大般涅槃経」が説く釈迦入滅の場面を描いた絵図。軸仕立。クシナガラの城外、跋堤河ほとりの沙羅双樹の下、釈迦が右脇を下に牀台に横臥し、周囲に釈迦の入滅を嘆き悲しむ諸菩薩や声聞、俗衆、動物などをあらわす。極彩色に描かれ、人物の表情などを丁寧に表出された作品である。
二河白道図

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絹本著色 縦七二・二糎 横七八・三糎
現代作

 善導著「観無量寿経疏」の二河譬を基に、他の経典や思想を加味して描かれた教化目的の浄土教説話画。此岸現世と彼岸極楽浄土を描き、その間に貪欲や執着を表す水と憎悪を表す火が流れる河(二河)を表し、水火の中間に彼岸と此岸を結ぶ細い白い道(白道)を描いて、信仰者のとるべき浄土往生心を強調する図柄である。
梵鐘

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銅製鋳造
総高一四七・〇糎 鐘身一一四・〇糎 口径七六・一糎
撞座径一四・〇糎
江戸時代(元禄九年・一六九六)
作者 太田近江大椽藤原正次 同庄次郎正重

 本堂前の鐘楼に懸けられる。形姿は下帯から池の間が円筒形に近く、乳の間から上方にかけてなだらかにすぼまる梵鐘で、江戸時代の典型的な作品である。乳の間は四区を設け、各区内に五列五段の乳を付け、各縦帯の上方にも二個ずつ付けて、合計百八個とする。中帯と縦帯が交わる位置に撞座を設け、撞座は八弁の蓮華文をあらわす。
 池の間の四区と縦帯の二区に陰刻銘があり、寺歴や制作年代、制作者である鋳物師などが分かる。
さきの第二次世界大戦中の金属回収でも供出されることもなく、現在、横須賀市内で最も古い梵鐘として貴重である。平成元年三月に、「市民文化資産」に指定された。

平成26年(2014年)3月、横須賀市の指定重要文化財に指定されました。

喚鐘

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銅製鋳造
総高六八・六糎 鐘身五五・六糎 口径三九・一糎
撞座径六・五糎
江戸時代(宝暦十年・一七六〇)

 喚鐘とは本堂の軒先や堂内の外陣に懸けて、法会などの時に合図のために用いる鐘で、半鐘ともいう。
 形姿は鐘身が円筒形に近く、駒の爪の張り出しが顕著な喚鐘。乳の間は四区を設け、各区内に四列四段の乳を付ける。鐘座を中帯と縦帯が交わる位置に設け、八弁の蓮華文をあらわす。
半鐘

銅製鋳造
総高五七・五糎 鐘身四七・〇糎 口径三二・五糎
昭和二十四年(一九四九)

 この半鐘は本堂内陣の背後廊に懸けてある。銘文により昭和二十四年三月の火災後に、什物として吉澤久蔵氏(市内若松町)によって寄進されたことがわかる。
 説明によると本鐘のモデルとなったのは、昭和二十三年(一九四八)八月十五日に秋田市千秋公園に懸けられた「平和の時鐘」であるといわれる。これを小型化したもので、製造は秋田市西馬口労町の林金属工作所であろう。
半阿弥陀如来立像

銅製鋳造
総高四七・七糎 像高三九・〇糎
近代作

 客殿に内仏として安置される。印相は上品下生の摂取不捨印をあらわす。構造は頭頂から台座まで全体を一鋳する。頭部まで中型をとり、鋳物砂はきれいに浚っている。近代のまとまりのよい作例で、村瀬春一氏の寄進といわれる。